ゆるまない離れ

「離れ」は自然の離れでなくてはならない。離すのではなく、離されるのでもない。「葉末にたまった雨露が自然に地に落ちる-すなわち、機が熟して自然に離れるものでなければならない。」と、「雨露利の離れ」が教本に記述されている。

「自然の離れ」とは、「ゆるまない離れ」のことであって、「ゆるまない」とは雨露の水玉が少しずつ膨らんで張力(重力)の限界で雫(しずく)となって、葉の先から水玉が落ちる(離れる)ことである。

「会」では、矢束いっぱいに引いて来た弓の張力(圧のエネルギー)を身体で感じながら、その張力(圧力)に見合った一定の力を、両肩で左右に矢筋方向に掛け続ける「無限の引分け」の内面的な情態を持続する中で、矢筋にス.トンと離れる。

「ゆるまない離れ」は弓の反動力のエネルギーを、無駄なく100%矢に伝えることができる究極の離れであって、その、「ゆるまない自然の離れ」を生み出し、「会」で一定の力を続けることを可能にするのが、両手の「手の内」で、その「手の内」には、それなりの形があって、それなりの整え方がある。

弓道には「左右対称の原則」がある。

弓手の「手の内」に力が入れば妻手の拳「手の内」にも力が入るというように、全ては弓手と妻手、つまり左と右の力使いに連動した力が作用するものである。

従って、妻手の「手の内」にも弓手の「手の内」を整える時と同様の要素(形と力使い)が必要なのである。つまりは、『両「手の内」を小さくする』ということで、弓手にせよ妻手にせよ、「手の内」が大きくなる(握る力が入る)ということはそれだけ余分な力が入ることになる。そして余分な力は無理な射につながり、自然の離れを阻害する。

弓手の「手の内」は、虎口で弓力の圧を受けて、親指の指先が反るように拇指球を効かせ、小指を締めた小さな「手の内」である。

妻手の「手の内」は、小指を締めながら拇指球を効かせ、親指の先端を中指の下に深く潜り込ませる取懸けをすることで、妻手の「手の内」も小さくなる。

両こぶしに握るような指先の余分な力を抜いて、両肩根を下げながら肩甲骨を広げるようにして、両肘に張力を感じるように弓構える。(円相の構えである)

その円相に構えた張力を失うこと無く、両肩根で掬いあげるようにして打起こす。

打起しは、息を下腹に吸いつつ右肘でリードしながら打起こし、腕が45度の高さになる位置で両肩に響くところとなり、いったん息を吐いて、吐いた息を丹田に納めるよう下腹に張をつくる。

その丹田の張に息を吸いつつ、同時に左肩根を左肘方向へ押し開くようにしながら、左手首を伸ばしつつ虎口が軸受けとなって弓が「手の内」の中で廻って行き、手首が前腕と真っ直ぐになった位置で弓の回転が終わる。

この大三に移行する「引分け」は、左腕の弓手が先導(リード)して行くのだが、左上腕の下筋(上腕三頭筋)を使って右腕の前腕を引っ張っていく感覚でリードしながら、右肘の位置は的方向に引かれるでもなく引くでもなく、肘を頭のてっぺんに寄せる気持ちで、右ひじをかぶり上げる。

大三の型(矢が両肩線と平行で水流れ、的が第二のねらい)が決まったところで息を吐くが、吐く息を丹田に納めながら、うなじを伸ばして縦線に不動の張を構築し、弦溝に下弦を取る(下弦を感じる)。

そして、丹田に息を入れる呼気をきっかけとして、左右均等に両肩を開きながら肩根を真下に下げて行く。手で弓を押したり弦を引く意識は無用にて、両肩・両肩甲骨の背中の力を使う心掛けで、両肘を肩の高さまで下ろして行くが、手の甲を下げる気持ちは使わない。特に妻手は矢が目通りの高さになったら手は下げずに、手首のくるぶし(紐処)を水平方向(矢筋)に意識して、右肘先を斜め下後ろへ向かって下げる。

会では、吸ってきた息を丹田に納めて下腹に張をつくって保ち、息を吸うでも無く、吐くでも無く、保ち続けて、気力を充実させながら、詰め合い、天地左右に伸び合う。

弓構えで整えた「手の内」を会まで崩すことなく、拇指球を使って弓圧を虎口と弦枕に受けて、会で親指を反らすことができるようになったことで妻手の親指に反発力(指をはじく力)が自然に生まれ、機が熟し、より鋭い離れを発動するに至る。

発の、離れたあとの残身で息を吐くが、心気の余韻が残る。型は、両こぶしが肩の延長線にあって、親指が真っ直ぐ伸び、小指が締まったまま、握りしめた形のこぶしとなる。両手を開くと手の平が脇正面を向く形となっている。

息を吐く間(ま)が残身で、息を吸いつつ弓倒しする。短く息を吐いて、息を吸いつつ物見を返し、縦に伸びる気を使いつつ息を吐く。

呼吸の息合いは、全て動作と供応させる。

吸う気で動き始めて、吐く間(ま)は動きが止まっているが、吸気の余韻が動作の残身である。

「ゆるまない離れ」を、イメージして、語るは易い、行うは難い。